・テロの事。その他、まだ考え中。(’01 9/15) (長いよ〜:アメリカの武力行使に反対の意味合いの事を書いたため、誤解のないようにいっておきますが、テロ行為は許せません。アメリカの受けた被害には、心を痛めています。早く回復する事、またこのような事が起きない事を願っています) アメリカで起きたテロ事件には、誰もがびっくりしたはずだ。私ももちろんびっくりし、心を痛めたが、サリン事件や阪神大震災などを間接的にではあるがリアルタイムで目撃してしまったため、「また嫌なことが起きた」って感じだった。 天災と国際テロは全く違うのに、最初は、ただ被害者の人は大丈夫かしらって事だけ、考えていた。でもその最初の時にも、確か大統領の「報復」って言葉はとび出していて、「あ、やばいな」って思っていた。 それから数日の間に、テレビで「戦争」って言葉が出てくるようになって、嫌な予想がどんどん形をとって来た。日本の政府にくらべて、さすがにアメリカは対処が早い。分かりやすい言葉でいたみを訴え、救済措置に乗り出し、犯人への怒りをあらわにして、国民に団結や目標を与える。犯人追跡や報復の作戦などが、毎日進行して行く。 被害者の気持ちを考えたら、言いづらいけれど、報復に関しては、「待ってくれ」って思うのだ。 思うのは、それじゃいたちごっこでいつまで経っても解決しない、特に宗教絡みの場合は、自分の価値観だけで相手を裁こうとしても無理なんじゃないか、という事。相手も人間で、攻めるアメリカ兵も人間で、報復行為によって失われる命や、苦しめられる人たちも出来てしまうという事。アメリカ側からばかりでなく、反対から見たら、どうなのか--アメリカ(あるいは第三者である私達)に問題はないのか?話し合う(無理かも知れないが)、譲歩する、見直す、謝罪すべき点などは全くないのだろうか?という事。他にもマスコミや各国の政策による洗脳といってもいい、かたよった考えや、安易な発想をしてはいないかという点などであった。 自分や、自分の大切な人が危機にさらされれば身を守るために相手を攻撃するというのは、動物でも持っている本能であり、見ず知らずの人をも含めて守ろうとするのは、人間の持つ美徳である。だから、敵を攻撃しようとする行為を完全に否定するのは難しいが、おろかなことではあると思う。本当に先々の事まで考えるのなら、報復するにしたって、もっと熟慮するべきだと思う。出来る限り、武力には訴えて欲しくない。 報復すれば、10年後、20年後に、何が起きるだろうか?石油を湯水のように使って、一部の人間に巨額の富を築くきっかけを与えている私達は、本当に部外者なのか?武器などを、最初に彼等にもたらしたのは誰だったのだろうか?聖地に米軍が駐屯している事に反逆している人達は、平和条約を持つ日本から米軍を廃絶出来ないでいる私達より、本当に悪いのか(もちろん無差別テロという暴力、犯罪は絶対に悪いが)。絶対的な和平はあり得ないだろうが、根本的な問題の見直しを、再考して欲しいところである。もちろん、日本も含めて、だ。例えば、被害者を救済するためのお金を出すのなら、それで税金が上がってもいいけれど、アメリカが武器を作って人を殺すお金ならば、出したくない。出すのなら、自分は武力行為に加担しているという認識が必要だと思う。 それから、このところずっと思っていた、人類のおごりというか、発展の限界のようなものを、この事件にも感じたので書いておく。大統領の怒りは、人が傷付けられたことの他に、経済や政治、軍事の象徴を攻撃されたことにも強く向けられていたようだった。経済的に、一刻も早く、より豊かに復興するっていう発言もあったんだけど、それについても、「ちょっと、待ってみようよ」と思ったのだ。 110階建てのビルなんて、いったん崩れたら、被害はその分大きくなるのは当たり前である。とはいえ、木造の平家ばかりなら簡単に焼け野原にされてしまうのではあるが。ただ、象徴的に、感じるものがあったのである。 人々を元気づけるため、世界のリーダーであり続けるため、早く回復しなくてはいけないのはうなずける。でもなんだか、ワーカホリックの人みたいに思えてしまうのだ。発展は、本当に必要なのだろうか? 貧しくて子供がばたばた死んで行くとか、本や音楽も楽しめない環境は好ましくないので、実に身勝手な考えではあるが、どんどん発展して行くのは、行き過ぎではないかと思うのだ。 戦後の日本みたいに、がんばってがんばって、気がついたら法律も芸術も整っていないまま先進国に持ち上げられ、いろんなことを要求される。お金と情報だけが氾濫して、皆どう生きていいのかすら分からなくなっている。美しい町並みが消えて、ドラッグストアからかしましい音楽が流れ、真夜中でもコンビニの電気が無機質に光り続ける。地球丸ごとが使い捨て文化になっているようだ。 ビルが粉々になった風景は悲しい。でも、緑の大地が高層オフィス街になった光景も、少しさみしいと思うのだ。自然淘汰、とは言い過ぎなのだが、こうした大きな事件が起きる度、被害者も犯人も傍観者も、目に見えない何かの力に左右されているんじゃないか、と思うことがある。もちろんそれは、聖戦の名の元に無差別テロを行っていいという意味ではない。世紀末とか、世界滅亡とかの噂に流されて、努力をあきらめ怠惰に生きろと言っているわけでもない。 近代的な民主主義や、化学、今現在の価値観、先進大国至上の発想、それが当たり前となっている私達が、本当に考えていかなければいかない事は、あまりに多いと思う。 このことは、フジ・ロック・フェスティバルへの参加や、美輪明宏、エークナット・イーシュワラン(インド出身の著述家・教育者・瞑想の普及者)、手作りせっけんの本などを通して、ずっと私の中で気にかかっている事だった。自由と平和の大切さ、自然や古来のもののありがたさ、美術や芸術、言葉、エコロジー、世界で起きている問題、身近な問題、プライド、孤高、いろんな事が、気になっている。正直、最近は毎日が、ある意味怖い。町並みや、人の言動や、テレビの中や、気温や、店に並んでいる商品の数々、自分の生き方に、「やばい」と感じるからだ。地球を、自分を、ぶっ壊すために生きているような気がすることがある。 少年犯罪が多いのは、彼等もそんなものを無意識に感じ取っているからではないかと思う。大人みたいに、目をそらして楽に生きていく方法を知らない/選べないし、子供の先々の事まで考えてやらず、平和ぼけして問題から逃げ続ける大人に、理想を見る事が出来ないからではないか、と。 本当に大事なことのために、なにかの犠牲が生じるのは、ある程度仕方がないと思う。でも今は、要らないもののために、何かが絶えず破壊されている。物や情報が溢れていて、本当に大事だと思う物や、時間が、少なくなっている。よい、悪いではなく、悲しく、無駄なことだ。本当の意味で、個人単位でも世界単位でも、一瞬一瞬、ひとつひとつ、一人一人を、大事にして生きて行きたいと思うのに。 こんな漠然とした思いを、何かの力に出来ないかと、今はまだ思案中である。 |
・アフガニスタンの凍死者(2月頃)に思う。(’01 9/30) テロ事件を調べていたら、いつのまにかアフガニスタンを調べるようになっている。 アフガニスタンにいるオサマと米国との関係は以前からのことで、現地に詳しい人から見れば、何を今さら、というところらしい。国連がアフガニスタンから避難、とか、米国が報復準備などという記事を読み、最近の事かと思ったら、以前の出来事だったりする。 自分の国際的な問題に対する意識の低さに驚くと同時に、報道や政策の偏りを感じる。 今年の2月頃、寒波の為、アフガン難民の子供達が毎夜たくさん凍死していた。その頃私は何をしていただろう?1日でも彼等の寒さに思いを馳せた事があっただろうか?世界中で苦しんでいる人たちがいる、という漠然とした事は知っているが、そのひとつひとつを個人レベルで考える事は少ない。神戸の震災や、今回のアメリカにおけるテロの起きた日は、ごはんを食べるのが申し訳ない気がしたし、夜も気になってほとんど起きていた。それと同じレベルで、アフガン人や、もっと他の国の人を思った事があっただろうか。ただ同情するのでなく、いたたまれない思いを、抱いただろうか。 私はほとんどテレビを見ないので、この時の報道がよく分からないのだが、状況の悲惨さに対して、十分な報道や援助がされなかったというコメントが、現在あちこちのHP上で見られる。それよりもタリバンが石像を破壊してからの批判や寄付の方が大きかったらしい。 テレビは一方的な情報を垂れ流すので、私は嫌いである。しかしインターネットは、他方面の意見を収集できるのでありがたい。同時に、収集する方向性は、自分次第と言う事だ。「アメリカ人が可哀想、オサマとタリバンは悪者、だからアフガニスタンごとぶっつぶせ!(大体オサマはアフガン人ではないのだが…)」説に疑問を感じる内、気がつけば「イスラム圏の人たちは被害者で、米国は彼等を利用する悪者。タリバンの行動は、やや行き過ぎているだけである」という考えにまでいきかねない。 特にオサマ、タリバンの「悪者度」(苦笑:彼等が私利私欲の為に行動しているのか、または彼等なりの正義の中で生きているのか。信仰にあつく暮らしぶりも簡素で、彼等によりソ連や国内のゲリラは撃退された過去があり、人気や期待もあったとされる反面、虐殺や極端な厳しい統治、無差別テロを行ったとされる面もあるなど)とか、米国や他国の陰謀説の真偽度、善悪はともかくこれからのテロ廃絶とアフガニスタンの回復の為にはどうすればいいのか、などとなかなか結論のでない問題が多い。特に、不況と言いながらも飽食社会に生きる私達が、相手の立場や価値観で判断するのは困難だ。 自分の意見をしっかりと持ち、国が最善の方に向かってくれるよう働きかけるのは、容易ではない(特に私のような、今まで何も関心を持っていなかった者は)。 最近になってアフガニスタンへの救援物資の輸送が行われるようになったが、同時に、数日中に攻撃を開始するという話も届いている。 はっきりした結論は出ていないながら、攻撃がターゲットをしとめられずに一般国民を痛めつけるだけに終わる確率が高い、という事が分かる。 潜伏している関係者によりオサマの居場所は確定できているんだろう、という見方もあるが、以前にも暗殺を企てて失敗したり、民間施設を誤爆した事があるのを考えれば、あやしいものである。難民や国内逃避民への支援も、十分でないと思えるし、全一般国民の安全が確保されているとはとても信じがたい。 ひとまず彼等を回復させなければいけないと思う。このまま米国の攻撃が開始されれば、難民は増え、来るべき冬にはまた多数の凍死者を出す事になる。各国からの援助に頼り過ぎて、軍閥の資金が全て軍事に向けられるとか、国民が自給しようとしなくなる問題もあるが、今現在自給しようにも出来ない状況なので、ある程度までは諸国の手助けが必要だろう。 とりあえずテロも報復も棚上げするよう交渉し、ただ犯人を引き渡せ、ではなく相手の要求などを聴く努力をしてはどうか。それで応じなければ、また違う策を練ればいい。その際、武力行使もやむを得なくなるかも知れないが、時間を置く事によって、攻撃対象をより確実にしぼる事にもなるし、無関係の人を巻き込まないよう配慮する事もある程度可能だ。 根本問題の見直しや、防衛に手落ちがなかったか、なども考えて欲しい。 それでは被害者の遺族や多くの米国民がおさまらないかも知れないので、それに対するアプローチも必要。イスラム教徒による、あるいはイスラム教徒に対する暴動などを押さえて欲しい。 今後のアフガニスタンの統治について、慎重に考える事も大事。 そして、報復は100%正義の為の行動なのか、これにより儲けを得ようとしている者はいないか、また、報復に乗り出す事で相手の思うつぼになっていはしないか、など、各国、国連、私達一人一人が意見を固めるにはまだ時間が必要だ。 時間がかかれば、それだけ混乱も生じてくるが、そこは個々が忍耐強くならなければいけないし、国家や報道機関は民衆に不安を植え付けたりあおったりする言動は極力慎むべきである。 以上は私個人の理想論で、米国で実現するとは思えない。近い内に、やはり武力による報復は起きるだろう。そこで日本政府への理想論なのだが、どうせ米国への軍時協力なんて期待されてないんだから、せめてこうしたらいいよ、という助言をしてあげるべきである。たとえ一笑にふされようとも。小泉氏も、「いいとこ見せるぞ!」という部分がないのか、考え直して欲しい。私欲でないと言い切れるのなら、もっと反対派の人に対してとか、具体的な説明をして欲しい。 ま、これも無理だろうけどね…。 それではどうするのか? 結論は出なくても、いろいろ考えたり、話し合ったりする事が大事だと思う(少なくとも、この事件を機にアフガニスタンに世界の目を向ける事が出来たのだから、犯人がアフガニスタンに関係していてそれが目的の一つであったとすれば、一つは目的を達せられたという事になる)。もちろん意見が分かれてもいいのだ。 テレビの報道などに扇動されて自分を見失わない事、逆に平和運動に熱くなって、同情心に酔ったり、ただ戦争反対と唱えればいいと思わず、これからもしっかりと自分の目を見開いている事が必要だと思う。大体、アフガニスタンよりも、すっかり病んでしまった日本の方がよほどあわれな気がするし…公害と事故と犯罪の渦の中、情報の波に押しながされ、せっかくのいい天気でも日光浴などする暇もなく、人工的な物や規則の中に押し込まれてしまう。ライブに行っても変な規則にいらいらさせられ、隣人が死んでいても気付かず、死が近い老人の体にはいっぱい管がついていて、さほど必要ではないもので部屋は埋まり、本当に欲しい物が何かすら分からない人がたくさんいるのだから(この件に関しては、また今度書きます。今の日本、腹が立つ事、情けない事、悲しい事が多すぎる)。 国際紛争といった大きな問題だけでなく、自分の中の差別意識や身近な問題を考え直すきっかけにもしたい。 こういう問題を考えると、人間ってダメな生き物なんだ、と諦めたくもなるが、米国の消防士やボランティアの人々、赤十字も撤退した時のアフガニスタンで医療活動を続けた団体、水もトイレもない難民キャンプで、カメラマンに興味を示して集まってくる子供達の話などを聞くと、人間っていいよね、と思う事もある。フジ・ロックに行った事で、日本の若者にもかなり期待が持てるようになった私である。人間は弱く、私も含めて、自分の目先の事でせいいっぱいの時もあるが、いつかは自分に返ってくるひと事ではない事なのだから、その時々でできるだけの事を、したい、また、できる、と思っている。 自分さえよければいい、面倒な事から目を背ける、人の意見に流される--といった事が、戦争にも、飢餓にも、少年犯罪にも、環境問題にも、すべてつながっていくだろう。いつか、自分が痛い目にあうだろう。その時に、できる限りはした、と思いたいではないか。またテロ事件に話を戻すと、人間が、「ダメな」生き物でないのなら、こうした遠回りな解決でも、被害者への供養になりうるのではないだろうか。 |
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